藤田嗣治『大地』

藤田嗣治『大地』

カフェにて(下)
リオの生活描く藤田の巨大画

エコール・ド・パリの画家、藤田嗣治は、日本画の極細の筆で描く乳白色の肌の裸婦像で知られる。
その画風の繊細さを知る人は、野趣あふれる「大地」に驚くかもしれない。今でも高さ2.5㍍、
幅は9㍍を超える大作だが、もとはこれの倍近い幅20㍍もの巨大壁画だった。1935年、東京の銀座に
開店した「ブラジル珈琲販売宣伝本部ショウ・ルーム」の影を飾った作品である。

この店の経営にあたったのはサンパウロ出身の貿易商アントニオ・アルヴァロ・アッスムソン。
ブラジル政府の命を受け、世界最大の生産量を誇る同国のコーヒーを販売宣伝する組織を立ち上げ、
銀座4丁目にある聖書館ビル1階にショールーム兼カフェを開いた。店の売りは、無料で提供される
ブラジル・コーヒー。東京にはカフェの数こそ無数にあったが、ビールや酒ではなく本格コーヒーを供する店は珍しかった。

聖書館と、隣接する教文館ビルはいずれも、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル設計を手伝ったチョコ出身の建築家、
アントニン・レーモンドが設計、アールデコ風の教文館には当時、銀座通りに面した側に塔がそびえていた。1階には
米国式のレストラン・バーらーが入り、アイスクリームやソーダー水目当てに文士らが通うハイカラな一画だ。ブラジル珈琲
ショールームも華やかでモダンな内装が話題をさらう。レーモンドの夫人でデザイナーの乃恵美が手掛けたすりーるパイプの
椅子に腰かけ、画面に描かれたブラジルの風物を眺めながら、人々はしゃれたカップ&ソーサーで香り高いこひーをすすったのである。

エコール・ド・パリの画家として一世を風靡した藤田が日本に帰国するきっかけは29年の世界恐慌だ。積極的に絵を売る必要に迫られ、
31年末からおよそ2年間、ブラジル、アルゼンチン、キューバ、メキシコなどラテンアメリカを旅した。パリで知り合った中南米出身の
芸術家の助けを借りつつ各地で展覧会を開き、生活費を稼ぐ生活だったらしい。帰国した藤田にレーモンドは2万円とも4万円ともいわれる
破格の画料を示し、壁画の制作を依頼する。

コーヒーの歴史に詳しい茨木大学名誉教授の佐々木靖章さんを訪ね、1冊のお古い小冊子を見せてもらった。完成直後のブラジル珈琲販
宣伝本部ショウ・ルームの内部の写真が掲載されている。壁画の画面左に、奇岩が突き出すリオデジャネイロの海岸をカンバスに描く
藤田自身の姿が見える。リオは当時の首都であり、郊外に農園が広がるコーヒーの大産地でもあった。画面の中央から右には、緑のコーヒー
農園を背景に白いシャツを身に着け、鍬や篩を手にする労働者たちがいる。

藤田はこの絵に47人の人物と15匹の動物を描き込んだ。しかもこれらを驚くべきスピードで完成させた。
朝9時から夜9時まで毎日12時間、モデルも下図も使わず丸1カ月間筆を動かし続けたという。
美術史家の林洋子氏は、「決して筆の速い画家ではなかった」藤田が「大地」の制作後、「いっそう限られた時間で作品を仕上げるようになり、
これはのちの戦争画制作の異様な速さを準備することになる」と著書『藤田嗣治 作品をひらく』に記す。まったく熱に浮かされたような制作
ぶりで、メキシコで友人ディエゴ・リベラらの壮大な裨益が群を目にして、創作意欲に火が付いたのかもしれない。

同本部では本格コーヒーを試飲させるほか、大日本国防婦人会の女性たちや女学生相手にコーヒーの入れ方の研修会も盛んに開いた
という。しかし太平洋戦争前夜の40年、カフェは閉鎖され、アッスムソンは壁画をはがして母国に送る。「大地」は無残にも四方を
切り取られてしまった。戦後になって日本の企業が買い戻した後は後は各所を転々とし、今は広島県廿日市市ウッドワン美術館に収まる。

鉄筋コンクリートで造られた教文館、聖書館は、銀座を一面の焼け野原にした太平洋戦争の空襲を免れた。現在の耐震基準を満たすほど頑丈に
できていると、レーモンド設計事務所社長で建築家の三浦敏伸さんが教えてくれた。もし壁画があのまま壁に残されたなら、藤田の最大級の
作品を当時の色鮮やかさのまま、いまも目にすることができただろうか。